「大窪寺跡」

 
三井之江から火上山の山腹へ登っていくと開けた台地があり、その右手の鉄塔の南西すぐに碑が建っている。
古代山岳寺院の跡だったのだろうか?

大窪寺跡
平安時代の寺跡
昭和三十八年善通寺市文化財保護委員会
H25.4.5

H25.4.5

H25.4.5

東寺百合文書に曼荼羅寺とともに大窪寺が出てくる。


同上の裏書き部分


同上の翻刻文が「香川県史 第八巻 資料編 古代・中世史料」(S61.3.31、香川県編集発行)に載っている。


これによれば次のような内容であろうか;
修行僧善範は、事の縁有り、大師ご建立の道場に参詣し、大師入滅の後多年を経たと雖も、破壊を修理することなきに依り、風雨の為仏像の朽損をおこし、よって修行を留めて、たちまち康平元年の初めより修造して 本堂別堂並びに施坂御堂はもとの如く建立。修理勤念これ怠らずと雖も、末法の当時邪見盛んなリ。よって勧進の知識も難しく、道心を起す人も稀有なり。 之により去る延久元年より曼荼羅寺並びに同じく大師御前跡の大窪御寺の両所に於いて各一千日法花講演を勤行し、本懐として人の貴賎を嫌わず、また道俗を論ぜず、ただ曼荼羅寺に修治の志を給わる人を御座しむべく致し祈祷を給わるなり。

漢文読み下しは素人なので以下詳細は省略するが、要旨としては弘法大師が建立してから何年もたち曼荼羅寺が荒れ果てているので修理をして、曼荼羅寺と大窪寺で各々一千日の法華講演をして修理費用の寄進を給わるようにしているのに、善通寺の所司等が来て曼荼羅寺領の地子を横取りするので、こんな非道を止めるべく御室の御裁定をお願いする、という内容になっている。

大窪寺といえば八十八番札所の大窪寺が有名であるが、曼荼羅寺再興のための費用を集めるために、曼荼羅寺と大窪寺で一千日講演を行っているのだから、この大窪寺は曼荼羅寺の近くにある大窪寺であろう。また、東寺百合文書には大窪寺は上掲文書の一箇所にしか出てこない所を見ると、1つの独立した寺というより曼荼羅寺を取り巻く僧房程度だったのではなかろうか。
また、大窪寺は、(曼荼羅寺と)同じく「弘法大師御前跡」となっているから、大窪寺の建立も弘法大師と深い関係があったようである。
また、この当時は出釈迦寺もなく施坂御堂というのがあったようである。





大窪寺跡 道順  古墳?

善通寺  曼荼羅寺  出釈迦寺  禅定寺  西行庵  人面石  経塚古墳  鷺井神社  東西神社
我拝師山  香色山  天霧山  七人同志  片山権左衛門  乳薬師  月照上人  牛穴  蛇石

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