「水茎の岡の西行庵」

 
西行法師は弘法大師の生まれた里にしばらく逗留した。善通寺市内に西行が逗留した庵が2つあり、「善通寺市史」によれば吉原のは山里庵と書かれているが、地元では下の写真の通り「西行庵」と呼ばれている。

曼荼羅寺付近を読んだ歌が残っている。




西行庵63kB

「西行上人いほりの跡」


西行庵から少し下ったところに道しるべがありました。

「左水くき」でしょうか。左下にも文字があるようですが読めません(「ミち」か?)
(今は、右の道をしばらく直登してから左へ行くと西行庵です。)

更にもう少し下がった分岐点にも道標があります。
 
これには「右水くき道 三丁廿間」と彫られているようだ。
1丁=60間=360尺=109.09m なので三丁廿間は約364mである。
(上掲2つの道標の「水くき」は同じ筆跡か?)

香川県「四国八十八箇所霊場と遍路道」調査報告書4
讃 岐 遍 路 道
曼荼羅寺道 (第71番札所弥谷寺から第72番札所曼荼羅寺間の遍路道)
調査報告書 2013年9月
編集:香川県政策部文化振興課 発行:香川県/香川県教育委員会
によると、昭和47年撮影の写真が次のように掲載されている。



これをみると、「右水くき道」ではなく、「左水くき道」のようである。
もしかしてこの道標も元はここに建っていたのではないのかもしれない。
この写真では台石にも何か文字が彫られているが、今は埋没している。

無理やり強引にこれを読むとすれば右から左に「・・・之旧跡」と読んで、
「西行法師之旧跡」とでも彫られていたのだろうか?


右側面にも小さい字で何か彫られている。拓本を採ってみると、
  (道標右側面)     (乳薬師の歌碑)
   
右側に比較のために乳薬師の芋畑古跡の歌碑を示す。
道標の方は字は小さいが、乳薬師の歌碑と同じ筆跡ではなかろうか。
(変体仮名の使い方は少し異なる。)

道標の右側面:月見よといもの子とものねいりしを 於こしに来たか何かくるしき
乳薬師の歌碑:月見よといもの子ともの祢いりしを おこし尓来たか何かくるしき

さらに道標の裏側の拓本を採ってみると、

安永三   青氈立 貞雲(霊?)彫
と書かれているのではなかろうか。
「氈」は漢字の偏と旁が逆に配置された異体字となっている。
これが「青氈」であろうと読める理由は、別の道標があるからである。


江戸時代初期に真念が道標をあちこちに建ててから百年近く経った安永/天明の時代に吉原で道標などが盛んに建てられたようである。
No.道標などの場所建立時期西暦願主(施主)
1曼荼羅寺鐘楼前江戸初期〜1690真念
     
2個人邸内安永3年1774青氈堂村井正房
3水くき道/花篭池北安永三1774青氈
4水くきミち/西行庵へ登り道   
5乳薬師前/芋畑古跡の歌碑   
6乳薬師前/七佛薬師碑安永8年1779青氈堂
7曼荼羅寺鐘楼前天明元年1781 
8曼荼羅寺北参道口天明元年1781(曼荼羅寺住持光道)
9個人邸内天明4年1784村井青氈堂
     
 (「金毘羅参詣名所図會」)弘化4年1847 

No.1の道標は、元々はNo.3と同じく花篭池から少し北に建っていたらしい。

No.3〜5の自然石3兄弟は上述のように、歌や筆跡などが似ており、同じ時期に建てられたのではなかろうか。
ただ、ほかの青氈堂の石碑は年号も堂々と彫られているのに、No.3だけ年号も建立者もやけに貧弱なのはなぜか。

弘化4年に刊行された「金毘羅参詣名所図會」に「芋畑古跡」が載っているが、この本は当時の観光ガイドブックであるから、当時既に芋畑古跡の歌碑が地元に建っていたことを示している。








西行庵 全景  説明板  内部  江戸時代の記録  歌碑  山家集  西行物語絵巻  生木大明神  滞在期間  讃岐での足跡

善通寺  曼荼羅寺  出釈迦寺  禅定寺  人面石  鷺井神社  東西神社
我拝師山  香色山  天霧山  七人同志  片山権左衛門  乳薬師  月照上人  牛穴  蛇石

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