「片山権左衛門」

 
丸亀藩主の前に進み出て、扇を開き、要を上にして天霧山に例え、山肌を流れてくる雨水を山裾で川(かき井手)に集めて池に導けば、稲作の収穫を増やすことができる、として、藩主を説得したと伝えられる。その結果、現在の大池が作られた。
また土手を築いても何度も崩れ、人柱をたてることに決まった。そこで問題なのが誰を人柱にするかであった。そこで、朝最初に池の近くを通りかかった人を人柱にすることに決めた。ところが、最初に通りかかったのはなんと権左衛門の家のものだった。

片山権左衛門の碑

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以前は池の山の西面にあったが、池の山開発で現在の位置に移設された。


H29.3.24 −石碑背面の碑文−

片山權左衛門翁ハ吉原村大字碑殿ノ人三井郷ノ庄司
タリ禄七十石ヲ食ス承應ノ頃郷氏胥ヒ謀り地ヲ天霧
ノ山麓ニ相シ面積十丁七畝歩ニ依リ澤ヲ受ル水田一
百餘町歩ノ大池ヲ築カント工ヲ起シ成ラズシテ止ム
偶大旱ニ遇ヒ郷民日々雲霓ヲ望ミ曩キニ築池ノ成ラ
サルヲ悲ム翁義憤ニ堪ヘズ私財ヲ投シテ元禄元年再
ヒ工ヲ起シ九年ニ至リ功ヲ竣ヘリ濟世利民ノ美挙ト
云ヘシ晩年致仕スルヤ藩主其功ヲ賞シテ七十石ヲ免
税ス之ヲ庄屋免又ハ權左免ト稱ス此池一名乳母ケ池
ト云フ築池ノ際乳母ノ人柱トナリタルヲ以テナリ又
醫王山七佛寺本尊ハ築池ノ際土中ヨリ顯ルト同寺ノ
縁起ニアリ碑殿大池ヲ築キタル事跡ノ口碑ニ傳フル
所ヲ記シ湮滅ニ供フト云フ翁享保八癸卯年五月十一
日逝ク法名密空良清居士銘曰
  穿池貯水 廣利耕田 功刻貞民 永傳萬年
   昭和十七年春覺城院諦圓撰
         高雄山老比丘清巖書


H29.3.24

世 話 人
 總 代
  安藤丑蔵
  松下徳太郎

  土井嘉傳治
  小野品八
  香川久吉
  香川茂市
  香川一朗
  高口馬太郎

 水利員
  竹内元四郎
  竹森福祐
  中川吉治
  村尾彌治郎
  野村義隆
  穐山五平
  白井祐治郎

有志世話人
  尾崎林太郎
  香川甚蔵
  香川勇一
  滝岡滋雄
  瀧岡嘉善
  谷淵龜平
  竹森義之
  村山忠吉
  野村兼治
  福嵜祐市
  安藤幾太郎
  佐柳卯三太
  白井淺治郎

旧字のため、字画が異なる文字がありますので、ご了承ください。



R06.3.20

【参考】讃岐国の藩主
和暦西暦藩の改変
天正15年1587生駒親正、讃岐国へ移封
慶長7年1602嫡子生駒一正、丸亀を居城とす。
寛永17年1640生駒騒動で生駒氏改易
寛永18年1641山崎家治が西讃へ入封、丸亀藩となる。
万治元年1658山崎氏断絶、京極氏が入封
元禄7年1694京極高通に1万石分割、多度津藩ができる。

翁碑の背面の碑文によれば、
 ・承応の頃(1652〜1654)郷士が集まって大池を築こうとしたが成功しなかった。
  (冊子「よしはら」によれば三井之江の村井本家が中心になって農民が農作業の合間に工事)
 ・元禄元年(1688)に片山権左衛門が再び着工し、苦難の末、元禄九年(1696)に完成した。
 ・晩年に出仕すると、藩主はその功を賞し、70石を免税した。

上表より、着工の許可願いは丸亀藩に出したことは明らかであるが、完成したときには三井郷も碑殿村も多度津藩領になっていたはず。免税を許可したのは行きがかり上、丸亀藩だったのか、それとも多度津藩が引き継いで許可を与えたのだろうか。そもそも「晩年に出仕」したのは丸亀、多度津のどちらへ出向いたのか。

片山翁碑 片山翁碑 全景  説明板  香川用水記念碑  用水記念碑背面  大池全景  大池改修記念碑

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