東西神社

 
天霧山の東尾根のふもとにある。


−「國譯全讃史」中山城山著(藤田書店)によると、−

東西大明神 吉原村に在り。
村社なり。昔、刺史橘宿禰高久始めて之を祠る。天正の時。香河之景再び之を脩む。農左次兵衛其の祠を主どる。萬福寺其の祭を主どる。祝は次大夫。巫は左次兵衛及び次大夫の妻なり。


村社である。昔、国司の橘(宿禰姓)高久が始めて之を祠った。天正の時、香川之景(後に信景と改名)が再び之を修理した。農夫の左次兵衛がその祠を司っている。萬福寺がその祭を司っている。神主(男)は次大夫。巫(女)は左次兵衛及び次大夫の妻である。

「國譯全讃史」
 故中山城山著、青井常太郎校訂國譯 昭和12年6月25日藤田書店発行 (S47.8.1復刻版)
(原本は、中山城山が文政戊子(1828年)に藩主松平家に奉献納したもの、とある。)



−「西讃府志」(京極家編纂)によると、−

東西大明神 祭神少彦名命、祭祀九月十九日、社林四段三畝、社僧萬福寺、祠官下瀧丹宮


「増補西讃府志」
 舊丸龜藩京極家編輯、昭和4年11月3日藤田書店発行 (S48.10.20復刻版)
「西讃府志」はいつ頃書かれたのか。安政戊午(1858)か嘉永6年(1853)かそれとも明治初期か、増補を繰り返したらしく、いくつもの年代が書かれている。「香川県大百科事典」四国新聞社編によると「西讃府志」は安政5(1858)完成となっている。



東西神社

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注連石の碑文
  (右)降神靈萬邦教稼穡黎元
  (左)為幽冥主宰讓顯世天孫
であろうか?


−「香川縣神社誌」(S13,香川縣神職會編)によると、−

村社 東西神社 吉原村大字吉原字北山
 祭神 大己貴命
   (おおなむちのみこと
 由緒 古く塔立明神と稱へられ、天喜四年十二月五日善通寺所司等解中、同寺の鎭守五社明神を記したる中に『塔立明神』とありて、此の五社は多度郡内の縁由ある神を伽藍の鎭守として祀れるものにして、雲氣、加富良津の諸神と共に往古は大社たり。・・・ 神社は天霧城の東麓に位し、伊豫街道に接する要路たるを以て中世戰亂の災禍にかゝり衰頽す。天正年間天霧城主香川之景(後信景と稱す)之を再興し、後世東西大明神と奉稱せられたり。 一説には天霧城の鎭守たりしと傳へられ、城主香川氏之を再建して厚く崇敬せりと云ふ。而して信景の再建にかゝる社殿今猶存す。明治十六年幣殿、拜殿を改築。昭和二年更に之を改築せり。明治四十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。


とあるが、東寺百合文書「善通寺田畠地子支配状案」(「香川県史 第八巻 資料編 古代・中世史料」S61.3.31 香川県編集発行)によれば、

<前略>
   天喜四年十二月五日  住僧 在判
證成大行事          大法師 在判
 天麻大明神         大法師 在判
 雷気明神          大法師 在判
 塔立明神
 蕪津明神
<後略>

とあるだけで、塔立明神が東西神社に該当するかどうかは、これだけではわからないし、これらが五社明神かどうかすら分からないと思うが、いかがであろうか。また「西讃府志」に書かれている祭神とも異なる。

「天麻」・「雷気」はなんだか変だが、原本はこれだろうか? だとすれば「香川県史」もずいぶんいい加減な翻刻をしていることになるが・・・。



これは写しだとわかるが、大麻大明神・雲気明神などが読み取れる。どこを見て、天麻・雷気などと読んだのであろうか。

また、證成大行事、蕪津明神とは何か? 屏風浦海岸寺公式ホームページを見ると、

この賀富良津神は当寺の伽藍鎮守神で、明治の廃仏毀釈に遭うまでは一の宮、二の宮、三の宮と称されるかなり大きな神社でした。この賀富良津の神は善通寺境内にも祀られています。二本の大楠の下にある二つの小祠を五社明神と云い、大師が多度郡内五柱の神を伽藍鎮守として奉斎したものです。東寺百合文書抄の天喜四(1056)年の解申に五社明神についての記述があります。

 證成大行事は、現在中村町にある木熊野神社で、社伝によれば、弘仁年間に大師自ら熊野本宮から勧請したとされます。本宮にある證証殿からこのように呼ばれます。
 大麻大明神は、大麻町にある大麻神社で、延喜式内社の一つです。
 雲氣明神は弘田町にある雲氣神社で式内社です。
 塔立明神は碑殿町にある東西神社です。
 蕪津明神は賀富良津神社で、現在は海岸寺境内に小祠のみがあり、ご神体は明治時代に調査官だった松岡氏が持ち去りました。現在も多和文庫内に保管されているはずです。

大麻神社雲気神社延喜式讃岐24社のうちであり、実在するので問題ない。蕪津神社も海岸寺内にあったとするなら、信じることにしよう。
しかし、「證成大行事」は「證証殿」とも違うし、神社名でも明神でもないように思えるが、どうなのか? 塔立明神がなぜ東西神社なのか? まったく説得力に欠けるのではなかろうか。

Wikipediaによれば、善通寺は大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落慶している。木熊野神社が上記のように弘仁年間に大師自ら勧請したのであれば、善通寺の鎮守にするには間に合っていないのではなかろうか。五社明神が善通寺領内の氏神を集めて善通寺の鎮守としたものならば、善通寺建立時に既に善通寺周辺に鎮座していないといけないのではなかろうか。

その上、「総本山善通寺」の公式ホームページには、東院(伽藍)の中にある五社明神について;

五社明神
 雲気大明神、大歳大明神、大麻大明神、広浜大明神、蕪津大明神を二宇相殿にお祀りしています。この五社は元の善通寺の氏神で、寺領安穏を祈るため、勧請せられ祀られています。

とあり、木熊野神社も塔立神社も出てこない。
大歳大明神は琴平町上櫛梨の大歳神社であろう。広浜大明神とは多度津町堀江の弘濱八幡宮であろうか。

「善通寺史」(蓮生觀善 編纂、S7.10.1、大本山善通寺御遠忌事務局 発行)によれば、
五社明神
大楠の下にあり、雲氣大明神、大歳大明神、大麻大明神、廣濱大明神、蕪津大明神の五社明神を祭りてあります、雲氣大明神の本社は筆岡村にあり、大歳大明神の本社は櫛無村にあり、大麻大明神は大麻村にあり、廣濱大明神の本社は豊原村にあり、蕪津大明神は西白方にあり、五社を相殿とし二宇並に東面す、 古くは檜皮葺なりしが今は瓦葺とせり、この五社は善通寺領の氏神なるを以て、寺領安穏を祈る為勧請せられたもので、此の五社を五智如来に配せられてあります。

とある。

ちなみに、「明神」とは仏教で呼ぶ神道の神様のことだそうだ。ついでに、「権現」は仏教で、仏が仮の姿として神の形で現れたものとしている。つまり、すべてが仏中心であって、仏より優れた神などいないとする考え方のようである。

「全讃史」の善通寺の項には;
又塔の南に豫章の大樹あり。是れ大師誕生の時よりある所と云ふ。(三教指帰に見ゆ) 其の下に五社明神祠あり。曰く大年、曰く大麻、曰く雲氣、曰く加富羅津、曰く廣濱と。是れ皆近村所在の名祠にして、誕生院の祀る所なり。近に因って之を此に祠れるなり。
とあり、古くから五社明神はこの五社だったようである。

また「全讃史」に木熊野神社というのはないが;
熊野十二所權現  仲村に在り
一村の社なり。昔時、行司貞房と云ふ者始めて之を祠ると云ふ。是れ則ち熊野三所權現と、十二所權現とを配祭せる者なり。甲山寺其の祭を主どる。
とあり、これが木熊野神社であろう。

話が逸れたが、塔立明神というのは何か? どうしてこれが東西神社に結びつくのであろうか? (ちなみに、多度津の町中には「榜立八幡神社」というのはあるが・・・)
塔立明神が東西神社だという理由が分からないが、まさか発音が似ている、などとはいわないだろうな。もしそうなら榜立神社の方がよっぽど発音が似ている。
しかも、「神功皇后が三韓征伐の御帰途 風波の難を避けて 桜川の舟だまりに軍船を休息させた折の所謂 榜立の由来を持ち 応神天皇を祭神とする熊手八幡宮の末社であります」という由緒正しい神社でもある。白方にある熊手八幡の末社との事ではあるが、熊手八幡は昔は多度津山の上にあったので、平地にある榜立神社の方が昔は有名だったとしても不思議ではない。


「吉原郷土研究会報 第七号」(平成15年7月、吉原郷土研究会発行)によれば、


上記の記事では、全讃史に「東西神社は塔立明神とも称す」と書かれているかのような誤解を与えそうな書き方であるが、上記記事の中ほどの(原文のまま)までが金森宮司が持っていた本に書かれていた内容であって、この本が誤解を与えそうな内容になっていることになる。全讃史には冒頭で引用したように「塔立明神」などという名称は出てこない。
上記(原文のまま)までの内容は「仲多度郡史」からの引用であって、「仲多度郡史」は「全讃史」からの引用範囲を明確に区別している。
上記記事(「仲多度郡史」)の表現からみれば、天喜四年の文書のタイトルは「善通寺政所・・」であることを正しく理解し、「塔立は忽ち本社ならむ」という希望的推定を述べているだけではなかろうか。
それがいつの間にか「香川縣神社誌」や海岸寺ホームページのように、東寺古文書を「天喜四年十二月五日善通寺所司等解」のような有りもしない杜撰な読み違えをし、「塔立が東西である」と、推定を断定に掏りかえた、という図式が見えてくるがいかがであろうか。こうしてみてくると、東西神社の祭神も、「香川縣神社誌」では大己貴命であるとし、祭神は少彦名命であるとする「西讃府志」と食い違っているが、「香川縣神社誌」は信用できるのであろうか?

「仲多度郡史」では「當社は一に塔立明神とも稱して、正月勧請神名帳にも載りたる舊社なり。」と書かれているが、神名帳には塔立明神が東西神社であるとわかるような書き方がされていたのであろうか。
「神名帳」は場所や折々に触れていろいろと作成されているようだが、次の「恒例修正月勧請神名帳」(必要箇所のみ抜粋)では南海道6ヶ国で16社ある中に「塔立大明神」が確かにあるが、どこにある神社かまったくわからない。これでは「東寺百合文書の中に塔立明神が出てくる」というのと同じで、これが東西神社であるとする証明には全くならない。
「修正月会」(しゅしょうがつえ)とは;コトバンクより
 毎年正月の始めに3日ないし7日間にわたって,国家・皇室の安泰,五穀豊穣などを祈願する法会。修正月会略して修正ともいう。修正会は何経をよりどころとして行われたのか明記するものがないが,一つには《金光明経》《金光明最勝王経》による年始の仏事として恒例化したものと,いま一つには767年(神護景雲1)正月の国分寺や官大寺における吉祥天悔過(けか)が年中行事化したものとがある。
修正月勧請とは;
 修正会の行事として、神々の来臨を迎えること、であろう。



紀伊國内神名帳」には「日前大神宮」「國懸大神宮」が出てくるので、上記の南海道の最初の日前大神宮・國懸大明神は紀伊国であろう。
他の神社はどこにあるのか?「塔立大明神」は讃岐の神社かどうかすら判らない。



上記は抜粋であるが、全体をみると次のように月毎の分担を決めているようである。
地域
 1大和國
 2山城國
 3河内國
 4摂津國
 5和泉國
 6東海道
 7東山道
 8北陸道
 9山陰道
10山陽道
11南海道
12西海道

これをみると、標題の「恒例修正月勧請神名帳」というのは、「正月の勧請」ではなくて、「修正した月毎の勧請」であろう。
「仲多度郡史」が引用している「正月勧請神名帳」とは正確にはどう書かれていたのであろうか?ぜひ原文を知りたいものである。

一般的に、「神名帳」は各国(各郡)内の神社を格式順にリストアップするのが目的であって、どこのどういう神社であるかは全く書いていないのではなかろうか。


ちなみに上記「恒例修正月勧請神名帳」の南海道16社をネット検索すれば、現存する神社は次のように出てくる。

日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)は、和歌山県和歌山市にある神社。1つの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり、総称して日前宮(にちぜんぐう)あるいは名草宮とも呼ばれる。 両社とも式内社(名神大)、紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁に属さない単立神社

?(ニンベンに平)多岐(ホタキ)神社は出てこない。山陽道にも同じ字があって「?和(ホワ)」神社と書かれているが、どうやら「ホ」の両側の点は汚れであって、「伊(イ)」らしい。
伊多岐神社をネット検索すると、伊多岐神社はないが、多岐神社・多伎神社なら全国に数社ある。南海道沿いを捜すなら、多伎神社(今治市古谷)多伎神社。今治市古谷に鎮座。集落の奥、山の中へ続く道を少し入ったあたりの場所。式内社 多伎神社に比定される神社。

丹生神社は全国各地にあるが、紀伊の国では丹生神社 (明王寺) - 伊太祁曽神社 奥院 和歌山県和歌山市明王寺鎮座

鳴神神社はないが、鳴神社(なるじんじゃ)は、和歌山県和歌山市鳴神にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。

記三所はないが、熊野三所神社ならある。上掲「勧請神名帳」の2月山城國をみると糺(タダスノ)大明神というのがあるが、「糸偏 が「言偏」のように書かれており、これを書いた人の筆記癖のようである。
従って、「記三所」ではなく「紀三所」なら、紀三所社というのがかつては日前神宮・國懸神宮の近くにあった。
紀三所社(きのさんしょしゃ)とは、現在の和歌山県和歌山市に鎮座する、いずれも『延喜式神名帳』に名神大社として記載された三つの神社。神階昇叙も全く同一のタイミングであり、紀伊三所神とも。
国史には三社とも承和11年(844年)に正五位下、嘉祥3年(850年)に従四位下、貞観元年(859年)に正四位下、貞観17年(875年)に従三位の神階昇叙の記事がある。

丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。 「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。

石屋神社(いわやじんじゃ) 【延喜式神名帳】石屋神社 淡路国 津名郡鎮座  【現社名】石屋神社  【住所】兵庫県淡路市岩屋799  平安時代に書かれた、延喜式に登場する淡路で最も古い神社のひとつ。祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)・イザナギ尊・イザナミ尊の三柱。3月第2土曜には豊作を願う浜芝居、5・9月第2土日曜にはだんじりもくりだす祭りが行われ、島の人々の信仰も篤い神社です。

三島神社、三嶋~社、三嶌~社(みしまじんじゃ)、あるいは三島社(みしましゃ)は、「三島」を社名とする神社。総本社は伊予の大山祇神社(大三島神社)と伊豆の三嶋大社である。全国に400社余り存在する。 伊予の大山祇神社を総本社とする大山祇・山祇神社(全国に900社前後)と併せ、「大山祇・三島信仰」と総称されることもある。

栗井(くりい)神社を検索しても勝手に【粟井(あわい)】神社が出てくる。粟井神社(あわいじんじゃ)は、香川県観音寺市にある神社。讃岐国苅田郡(後の豊田郡、次いで三豊郡)の式内社(名神大社)。旧社格は県社。藤目山山麓、岩鍋池の畔にある。 境内には約3,000株のアジサイが植えられており、6月下旬にはあじさい祭が開催される。別名の「あじさいの宮」「アジサイ神社」はこのアジサイから呼ばれるようになったという。

中臣大嶋神社はないが、中臣大島という人名は検索される。こんな人を祀る神社が四国にあるとは思い難いので、紀伊にあったか?
中臣 大島(なかとみ の おおしま、生年不詳 - 持統天皇7年3月11日(693年4月21日))は、飛鳥時代の貴族。氏姓は中臣連のち中臣朝臣、藤原朝臣、中臣朝臣。中臣渠毎の子。官位は直大弐・神祇伯。

御厨神社(みくりやじんじゃ)は、兵庫県明石市東二見にある神社。菅原道真が休息した仮寝の松や菅公腰掛松があったとされ石碑が残る。・・・これは山陽道と思われるので、南海道のどこかに別の御厨神社があったのでは?

大屋都彦神社はないが、大屋毘古命を祀る神社なら和歌山市にある。
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)  和歌山市伊太祈曽(いだきそ)に鎮座。五十猛命(いたけるのみこと)(大屋毘古命(おおやひこのみこと))と、脇殿(わきでん)に大屋津比売命(おおやつひめのみこと)、都麻津比売命(つまつひめのみこと)を祀(まつ)る。五十猛命は素盞嗚尊(すさのおのみこと)の子、脇殿2神はその妹神。五十猛命は天降(あまくだ)るとき樹種をもってきて、この国に植林したことから木の神として有名である。初め現在の日前(ひのくま)、国懸(くにかかす)両神宮の地に祀られていたが、その創建により713年(和銅6)現在地に遷座した。『延喜式(えんぎしき)』の名神(みょうじん)大社。1873年(明治6)県社に列格。85年国幣中社、1918年(大正7)官幣中社に昇格した。例祭は10月15日。特殊神事として、1月15日の卯杖(うづえ)祭、4月第1日曜日の木祭、7月30日の茅輪(ちのわ)祭がある。

火鳴竃神社はないが、(山陽道?)吉備津神社―鳴釜神事は有名。

以上のほかは検索しても出てこない。塔立神社も含めて現存しないのだろう。
以上を整理すると次のようになる。(橙色の字は推定判読したもの)


以上から、少なくとも次のことは言えるのではなかろうか。
・東寺文書のうち、天喜4年(1056,平安時代中期)の善通寺政所の文書に「塔立明神」が出てくることから、この頃は誕生院善通寺の近郷に「塔立明神」があった。
 (五社明神の1つだったかどうかは書かれていない。)
・明暦3年(1657,江戸時代初期)にはまだ南海道6ヶ国のどこかに「塔立明神」があった。
・天明六年午(1786)二月 津森組多度郡村々寺社帳に、五所明神二社 誕生院伽藍ノ内ニ在 別當善通寺村誕生院 北一社合殿蕪津大明神、大麻大明神、南一社合殿大歳大明神、雲気大明神、廣濱大明神 社人入用之節ハ行事冨之進罷出相勤申候
・「全讃史」にも「西讃府志」にも「塔立明神」は出てこないことから、江戸時代後期には「塔立明神」という名前は消滅していた。
・「全讃史」の善通寺の項に五社明神は「大年、大麻、雲氣、加富羅津、廣濱」と書かれているから、江戸時代後期には五社明神に塔立明神も東西神社も含まれていない。
・もし塔立明神が江戸時代前期まで五社明神に含まれていたと仮定して、その後塔立明神が衰退しても、消滅したのではなく東西神社と名を変えて存続したのであれば、善通寺が五社明神の一部を別の神社に変えてしまうのはおかしいのではないか。
 (一方で、そんなに古くからあった由緒正しい神社だったのなら、神社側としても消滅しない限り名前を変えずに存続したのではないか。)


天喜4年の東寺文書を読み下し解説した記事を見つけた。五社明神を矛盾なく解釈している。


捜していると見つかるものですが、ついに塔立明神/東西神社説の発端を見つけた。明治9年の「讃岐国官社考証」の中から抜粋すると次のような書き込みがある。

大麻神社
  <途中 略>
東寺文書抄〈元本を縮写して抄出せり〉
讃岐國善通寺所司等解申
 右寺は此弘法大師御先祖無止前跡也云々
善通寺政所
天喜四年十二月五日
  證成大行司   住僧在判
  大麻大明神   大法師在判
  雪気明神    大法師在判
  塔立明神    大法師在判
  蕪津明神

 (以下、略)
此古文書に載セたる五社ハ、皆多度ノ郡の内と聞エたるが、
證成大行司と云ヘるハ、熊野ノ大神を、佛徒ハ此如く稱せり
と聞ケり、此郡内仲村、生野、伏見等の所々に熊野權現の
社あり、是レハ何れをさせるにか、善通寺に近きハ中村
なり、大麻ハ、論(あげつら)ヒなし、雪氣ハ雲気の誤りか、猶彼条下を
見るべし、塔立今さだかならず、吉原村に東西明神と
云フあり、其(ソレ)ならむかの説あり、此神正月勸請神名帳と
云フものにも載す、蕪津ハ、西白方村の海濱に、カブラツ
と云フ所に小祠あり、必ずそれならむ、此蕪津ハ、三代實
録に、賀富良津ノ神とありて、従五位ノ下を授ケたまへり、然
るに全讃史善通寺の段に、塔南豫章ノ大樹有り、其下ニ五
社明神ノ祠有り、曰ク大年、曰ク大麻、曰ク雲氣、曰ク加富羅津、曰ク廣濱、是
皆近村ニ之名祠所在ス、誕生院之祀る所也、
因テ近ク之ヲ此に祠ル也、と云フことも見ゆ、


粟井神社
延喜臨時祭式ニ云ク、名神祭二百八十五座、粟井ノ神社一座讃岐國
正月勧請神名帳ニ云ク、南海道六箇國為十一月守護、粟井ノ大明神、この次に
塔立〃〃〃と有ルも本國の神なり、
神社は、紀伊ノ郡粟井村に在て、中古より刈田大明神と稱(イヒ)來れりと、・・・

上記の枠内は、東寺百合文書の元本を知った上で注意深く読めば、「善通寺所司等解申」と「善通寺政所 天喜4年12月5日」とは別文書であることがわかるのだが、五社明神とか塔立明神が東西神社だとか言っている人は元本を見ずにこれを読んでしまったのだろう。
また、證成大行司は熊野大神のことと仏教徒がいうのを聞いた、とか、塔立は定かでないが東西神社という説がある、としか書いてない。
それなのにこれを断定的に言いふらしている人たちがいることになる。

以上を再度整理しなおすと、
年代資料記事・内容正誤
天喜4年
(1056,平安時代中期)
東寺百合文書善通寺政所の文書に「塔立明神」が出てくることから、この頃は誕生院善通寺の近郷に「塔立明神」があった。
 (五社明神の1つだったかどうかは書かれていない。)
 
明暦3年
(1657,江戸時代初期)
恒例修正月勧請神名帳南海道6ヶ国のどこかに「塔立明神」があった。 
天明六年午(1786)二月
(江戸時代中期)
津森組多度郡村々寺社帳五所明神2社 誕生院伽藍の内に在り 北一社合殿蕪津大明神、大麻大明神、南一社合殿大歳大明神、雲気大明神、廣濱大明神 
文政戊子(1828年)
(江戸時代後期)
「全讃史」「塔立明神」は出てこないことから、江戸時代後期には「塔立明神」という名前は消滅していた。
大楠の下に五社明神祠あり。大年・大麻・雲氣・加富羅津・廣濱と。是れ皆近村所在の名祠にして、誕生院の祀る所なり。
 
安政5(1858)完成「西讃府志」「塔立明神」は出てこないことから、江戸時代後期には「塔立明神」という名前は消滅していた。 
明治10年頃「讃岐國官社考証」・證成大行司というのは、仏教徒が熊野大神のことをこう称していると聞いた。近郷に熊野権現は数社あるがどれを指すのか、近いのは中村。
・塔立は今は定かでない。吉原村に東西神社というのがあり、それだろうかという説がある。この神は正月勸請神名帳にも載っている。
・全讃史に書かれた五社明神は大年・大麻・雲氣・加富羅津・廣濱。
大正7年「仲多度郡史」東西神社は塔立明神とも称して正月勧請神名帳にも載っている旧社である。
天喜四年の善通寺政所に五社明神を記した中に塔立明神があり、
多度郡内で弘法大師にも縁由があるから塔立は東西神社であろう。
(と推定している。なぜ東西神社が多度郡内で弘法大師にも由縁があるのか? 青龍神社ならわかるが。)
昭和13年「香川縣神社誌」東西神社は古くは塔立明神と称して、天喜四年の善通寺所司解申、五社明神を記した中に塔立明神とあって、雲気、加富良津と共に昔は大社だった。
(ここに至っては天喜四年の文書が何なのかも理解していないと思われる。)
最近(海岸寺ホームページ)・東寺百合文書抄の天喜四(1056)年の解申に五社明神についての記述があります。
・證成大行事は、證成大行司現在中村町にある木熊野神社で、大師自ら熊野本宮から勧請したとされます。本宮にある證証殿からこのように呼ばれます。
・塔立明神は碑殿町にある東西神社です。
(今まで疑問を含んだ表現だったものが、なぜかすべて断定されている。)

以上から、
・1056〜1657年までは南海道6ヶ国のどこかに(おそらく善通寺の近くに)塔立明神というのがあった。
・1786〜1858年の間、塔立明神というのは出てこない。
・明治10年ごろ、多和神社の祀官である松岡調氏が「讃岐國官社考証」で、東寺文書の中に塔立明神というのがあり、これが東西神社ではなかろうかと推定した。善通寺の五社明神には入っていないことも確認している。
・仲多度郡史が、五社明神の中に塔立明神があって、これは東西神社であろう、とした。
・その後「香川県神社誌」や海岸寺が、「塔立明神は善通寺五社明神の1つであって、東西神社のことである」と断定的に表現した。

こうして眺めてみると、明治10年ごろに既に根拠のない噂話が広がり始め、大正7年の「仲多度郡史」にいたって、真偽をさほど確かめもせずに手当たり次第に収録していったのが災いしているのではなかろうか。

「仲多度郡史」はこれ以外でも、
 ・萬福寺が本村から現在地に移ったのは「西讃府志」では正徳元年(1711、江戸時代)としているのに、天徳元年(957、平安時代)としたり、
 ・東西神社の祭神は「西讃府志」では少彦名命としているのに、大己貴命としてみたり、
と、ゆがめてしまったのではなかろうか?


天喜四年の文書は、田畑使用料として納付される米穀など農産物の使用先の配分を決めたもののようであるが、その證成大行司(=判定執行役)が4つの神社であるとすれば、善通寺周辺から均等に判定役を召集するのが普通であろう。
大麻神社は善通寺からは南に、雲氣神社は弘田にあるから善通寺からは北にあり、蕪津神社は海岸寺のすぐ西にあったのであれば善通寺からは北にある。
塔立神社がもし東西神社であれば、これも善通寺からは北にあり雲氣神社にも近い。これを判定者に選んだのなら偏りすぎであろう。
判定者のバランスをとるとすれば、塔立神社は善通寺から北以外、すなわち南や東あるいは西にあったのではなかろうか。
塔立神社は南海道の周辺にあったはずであるが、旧南海道は大日峠を通っていたとする説もあるようだから、善通寺より南側に塔立神社があったとは考えられないだろうか?
但し、「全讃史」の多度郡の項には、加富良津神について次のように書かれている。
石ノ神 吉田村に在り
盖し古代の靈神なり。今廢して只石のみ存すと雖も、其の威甚だ猛なり。因って之を憶ふに、加富良津神ならむ。今其の所を失ひ、獨、善通寺五社明神の内に之を収む、然らば則ち此の神は盖し加富良津神ならん。三代實録に云ふ。貞觀六年、讃岐國正六位上加富良津神に從五位下を授くと。
(「全讃史」には白方あるいは海岸寺付近に加富良津神の記載なし。注:貞観6年=864年)

海岸寺の主張するように「この賀富良津神は当寺の伽藍鎮守神で、明治の廃仏毀釈に遭うまでは一の宮、二の宮、三の宮と称されるかなり大きな神社でした。」というなら、文政時代に書かれた「全讃史」の白方付近になぜこの神社が載っていないのか? 
(「全讃史」には西碑殿の今はない常住寺まで載っているのに・・・。)

海岸寺の主張は信憑性が薄いように思えるが、「仲多度郡史」も巷の噂をかき集めただけでその真偽までは確かめていないようであるから、どこまで信用してよいかわからない。

「全讃史」の推測があっているなら吉田村は善通寺の東に位置するから、加富良津明神は善通寺から東に当たり、もし塔立明神が大日峠に至る旧南海道のどこかにあったなら、収入配分の判定役である證成大行司は善通寺を囲む東西南北から一社ずつとったことになり合理的である。證成大行司が4社なのも納得がいく。

また、證成大行司の順番は、延喜式讃岐二十四社の大麻神社・雲気神社を先に書き、それ以外の塔立・蕪津を後に書いたとも解釈できるが、東西南北から選出したとすれば、中国の方位磁石を指南車というように昔の地図は上を南、下を北、右を西、左を東に描かれており、当時の文章は上から下へ、右から左へ書かれるから、このとおりに並べるなら南北西東の順に神社を並べて、大麻・雲気・塔立・蕪津の順になり、納得がいく。





東西神社   秋祭  道標  神社参道  神社外周  神社本殿  本殿背面  境内石造物  境内末社  玉垣  西東西

萬福寺   正面  本堂  境内  寄進碑  鐘楼  延命地蔵

善通寺  曼荼羅寺  出釈迦寺  禅定寺  西行庵  人面石  鷺井神社
我拝師山  香色山  天霧山  七人同志  片山権左衛門  乳薬師  月照上人  牛穴  蛇石

香川県善通寺市吉原町  トップページへ


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