「七人同志」

 
寛延3年(1750)1月に起こった百姓一揆では多度郡三井村や碑殿村が中讃勢の結集地となった。


「讃岐の歴史」S50.9.10,香川地方史研究会編(講談社)より

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「讃岐人物傳 全」(福家惣衛 著、香川新報社 T3.3.20発行)より
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碑殿村の甚右衛門は、山階蓮忍寺の過去帳では「甚左衛門」となっているらしい。どうも「甚左衛門」の方が正しいようである。


「讃岐名所歌集」赤松景福著兼発行、昭和3年3月24日 上田書店発売 (S58.8.10復刻版、丸山学芸図書)には


「西讃百姓一揆始末」佐々栄三郎:著、讃文社:発行、1976年10月1日には

寛延三午歳  法名 釋宗山信士  七月廿八日

上記の大正3年発行の本では「百姓5万余人」、昭和50年発行の本では「人数約6万5千余人」、「西讃七義士傳」の昭和55年の序文では「参加農民7万人にも及び」(平成28年に建てられた現地説明板には「農民7万人余」)と、次第に話が大きくなっていく様子が見えておもしろい。
こういう数字は今でも主催者発表は最初から大風呂敷を広げた数字であるのが常である。それを年月を経るごとに次第に数字を増やしていくとは、事実の歪曲でしかない。歴史は後世の人がおもしろ半分に誇張することなく、正確に伝えたいものである。さもないと百年も経てば何が正しいのかわからなくなる。

平成28年の善通寺市の人口が32,682人、三豊市が64,876人で、現在の三豊市は広域になったので、この両エリアだけで当時の那珂・多度・三野三郡より広いであろう。(参考までに多度津町の人口は23,675人) しかもこの数字は赤ちゃんから寝たきり老人まで含めた男女総数である。そのうち一揆に参加したのは男だけとして約半数の48,779人。これですでに5万人を割っている。それから更に子供・老人を除き、百姓以外の人を除けば当時の人数はいかほどになるであろうか。しかも当時の廻状を見ると、百姓全戸が参加したのではないようである。

想像してみてほしい、現在の国道を突如1万人が行進しているところを・・・。これはもうビックリ仰天、大事件である。何万人にも増やすまでもなく十分大規模である。
国営まんのう公園で毎年開かれる現代の音楽祭典「モンバス(MONSTER baSH)」でも、県外からも集まって5万人である。 モンバス開催の日は県内の観光バスは全部予約済みで、隣県のバスまでチャーターしているらしい。



七人同志 石碑  仲多度郡史  西讃七義士傳  さまよう怨霊?  一揆の経緯  説明板  埋葬地  童子が浜  大西権兵衛神社  三井の金右衛門  善通寺境内

善通寺  曼荼羅寺  出釈迦寺  禅定寺  西行庵  人面石  鷺井神社  東西神社
我拝師山  香色山  天霧山  片山権左衛門  乳薬師  月照上人  牛穴  蛇石

香川県善通寺市吉原町  トップページへ


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