壇ノ浦古戦場跡(下関市公式観光サイトより)
源平最後の対決
平安時代末期の寿永4年(1185)に、源氏と平家の最後の戦いとなった「壇ノ浦合戦」の跡。現在は「みもすそ川公園」として遊歩道が整備されています。公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで
「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。壇之浦古戦場を一望できるこの場所は、『今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは』(長門本平家物語)という
二位の尼辞世の歌から地名が生じたといわれます。公園内には、源義経・平知盛両雄の像とともに、安徳帝御入水之処碑が配置されており、海峡の激しい潮流を背景に源平最後の合戦に思いをはせることができます。
壇ノ浦古戦場(みもすそ川公園)
・所在地:下関市みもすそ川1番
壇ノ浦の合戦
平家と源氏の雌雄をかけた源平合戦。その最後の舞台となったのは、長門国赤間関壇ノ浦の海上でした。寿永4年(1185)3月24日、両軍約4,000艘ともいわれる軍船が、関門海峡に集結していました。
白旗をなびかせるのは、源義経が率いる源氏勢、対する平家は平宗盛、平知盛が率い、船には赤い旗が翻っていました。天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋を切って落とします。まず優勢に立ったのは平家の船団。
東流れの潮流に乗り、戦いを有利にしていました。しかし、昼近く潮流が西に変わりはじめると接近戦となり、さらに義経が平家軍の水子・舵取りを射させて混乱させ、戦況は逆転。源氏が優勢になるにつれ、平家から源氏へ裏切るものが相次ぎました。
平家きっての武将、平教経は、義経を討とうとして追い詰めましたが、義経は俗にいう「八艘飛び」で味方の船に逃れ、果たせませんでした。敗戦を覚悟した二位の尼は、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の
安徳天皇を抱いて海峡に身を投じました。後を追った帝の母建礼門院は助けられて囚われの身となりました。勝敗がついたのは午後4時、知盛はじめ主だった武将は一門の最期を見届けると、次々に入水しましたが、平家の総帥、宗盛親子は
捕虜となって戦いは終わりました。関門海峡には、ただおびただしい平家の赤い旗印が漂うばかりでした。栄華を極めた平清盛の一族は歴史上からその姿を消し、再び表舞台に立つことはありませんでした。
海峡が見守ってきた歴史に思いをはせる
壇ノ浦の合戦に敗れ、平家一門は滅亡しました。それは、古代から中世へ、貴族から武士へと、時代が動いた瞬間でもありました。武士の時代は徳川幕府の大政奉還までの約700年間続きます。
そして、その終わりを招いた明治維新は、同じこの関門海峡で勃発した攘夷戦(馬関戦争)を引き金に始まりました。ここ壇ノ浦古戦場跡は、幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもあるのです。
歴史は繰り返す…。海峡が見守って来た歴史を振り返る時、その思いはいっそう胸に迫ってきます。
みもすそ川公園
平知盛像(碇潜:いかりかづき)
源義経像(八艘飛び)
源平合戦の像(裏側)
安徳帝御入水の処
二位尼辞世
今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ
波の下にも みやこありとは
みもすそ川とは、伊勢神宮を流れる五十鈴川の別名「御裳濯川(みもすそがわ)」を引用したものであろう。
説明板
同上拡大
上記のネットによれば;みもすそ川公園内では、「歴史体感☆紙芝居」を開催中。ほぼ1年を通して
毎日、武者姿の読み手が下関で繰り広げられた歴史などを題材に紙芝居をが行われています。
下関砲台(幕末の攘夷運動で外国船を砲撃した馬関戦争の砲台跡)
日本大百科全書などによると、馬関(ばかん)は、下関(しものせき)市の旧称である赤間関(あかまがせき)を赤馬関とも書く
ところから出た別称。明治22年(1889)の市町村制施行時には赤間関市と称したが、明治35年(1902)下関市と改称。
碇潜(赤間神宮前駐車場の説明板)
みもすそ川公園の頭上を通る関門橋
関門橋と海底トンネル
人道関門トンネルは全長780mしかない。関門海峡は驚くほど狭い。
壇ノ浦源平合戦史跡
みもすそ川公園
赤間神宮
平家の一杯水
源平合戦 水島合戦(平氏側)
水島合戦(源氏側)
下津井合戦
屋島源平史跡
安芸の宮島