「矢止めの松」

 
 源三位頼政が讃岐の国へ下向してきて多度郡の三井に住んでいた。今の多度津町大字三井で ある。善通寺市の筆の山に大百足がすんでいて付近の人々を苦しめていたので、頼政さんはこ れを退治しようと、現在の若宮さまのところから弓に矢をつがえて射たが善通寺市の弘田に生 えている松の木がじゃまになって一本目も二本目も当たらない。三本目の矢がやっと命中し、 百足は死んでしまったという。
 その弘田の松の木は今もあって頼政矢止めの松という。頼政さんの屋敷跡には今は頼政さん を祭った若宮さんが残っている。そしてそのそばに須藤家というかつての大庄屋の家があるが、 この家は頼政の子孫だそうである。
−−「讃岐の伝説」武田明・北条令子著(S51、角川書店)より−−

私が子供の頃にはまだ松の木があったように記憶しているが、今はなにもなく、周囲に家が建て込んできている。


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源三位頼政の矢塚と云い傳えられているが吉原にあるそうですが、どこだかわかりません。ご存じの方いらっしゃいませんか。



−−「西讃府志」(舊丸龜藩京極家編輯,S4.11.3,藤田書店発行)より−−

源三位頼政
三井村ニ源三位頼政ノ居趾アリ、相傳フ頼政此ニ居テ加茂明神ヲ齋ヒ祭リ、氏神ト崇メリ、居趾田中ニアリ、廻リ二隍アリ、ソコニ若宮祠アリ、頼政ヲ祭レリ、其祠ニ系圖一巻旗装束ナト納マレリシヲ、生駒公ノ時彼祠再興ヲ願ントテ、高松ノ府ニ出シタリシガ、火災ニカヽリ失ヘリ、其南一町バカリニ、門ノ跡トテ今御門トヨベリ、又的場堋跡ナトモアリ、又矢留松吉原村ニ矢箟塚ナト云モアリテ、矢留松ハ頼政ノ遠矢ヲ試ミシ處、矢箟塚ハ箟ヲ其處ヨリ取タリト云リ、○今按ニ頼政彼地ヲ領知セシコト書ニ見エズ、サルニ彼村ニ須藤氏ナル者頼政ノ裔ト云傳テ、其家ノ記ニ多度津ノ内ニ三井田ト云田ノ字村々ニアリ、頼政ノ末族領知セシ地ナリトイヘリ、サレバ頼政ノ子孫コノ地ニ下リシ者、頼政ヲ若宮ト祭リタルヲ即チ頼政ノ此ニ居タリト傳ヘタリシニヤ、又思フニ頼政ノ女ノ二條院ニ仕ヘシヲ、讃岐トイヘリ、是ハ和泉守橘道貞ノ室ヲ、和泉式部ト云シ例ニヨレバ、讃岐守ノ室タリシニヤアラン、是等モ縁アルカ、尚ヨク考フベシ、


漢和辞典を引くと「箟」は「やだけ、しのだけ。細長くて節がなく、やがらを作るのに適する。」とありますから、「矢箟」で「やだけ」と読むのでしょう。
よく似た漢字に、「箆」や「篦」がある。こちらだと「矢箆塚」や「矢篦塚」は「やのづか」と読める。西讃府志はどちらのつもりで書いたのだろうか?


「國譯全讃史」中山城山著(藤田書店)によると、
頼政祠  三井村に在り
傍に庵あり。四百歩ばかり。外に駐矢(ヤトメ)の松あり。土人云ふ。昔源三位の發する所の矢 此の松に中り羽を呑むと云ふ。又弘田村に頼政の演射場あり。盖し此の地、源三位の 領地なれば事を好む者之を祭れるか。(或は云ふ頼政の母は則ち豊田郡戸坂の人なりと)

これが正しいとすれば、矢止めの松は三井村にあったことになる。弘田村には演射場があっただけ。
   (注:「盖し」は原文のままだが、「蓋し」が正しいと思われる。)


矢止めの松  碑文  矢止  矢ノ塚


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