雲気神社

 
雲気神社 由来

H14.10.13

上の縁起には、「天正六年(1578)長宗我部軍の天霧城侵攻のおり、兵火にかかり、社殿が焼失したと伝えられており」とあるが、香川氏は長宗我部とは戦わずに降伏したようだから、焼失したのは三好実休が攻め込んだ善通寺合戦の時ではないのだろうか?

Wikipediaによれば、
永禄元年(1558年)9月、三好実休が東讃岐の諸将とともに天霧城に攻め込むが、之景はこれを撃退(善通寺合戦)。之景は実休と和議を結び、所領安堵のうえ三好氏の支配下に入ることとなった。このとき之景は天霧城から退去し、のちに毛利氏の支援で天霧城に復帰したとする異説もある。
織田信長が上洛して中央に政権を樹立すると、天正4年(1576年)、之景は織田氏に通じ信長の偏諱を受け「信景」と名乗る。
天正7年(1579年)、土佐の長宗我部元親が讃岐に侵入すると信景はそれに屈し、元親の次男・親和(親政とも)を養子に迎え入れ家督を譲った。
以後、信景・親和父子は長宗我部氏の讃岐攻略に尽力し、天霧城はその拠点の一つとなる。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐に伴い、香川家は取り潰しとなり、信景は土佐に移り天霧城は廃城となった。



仲多度郡史」の雲氣神社の項には次のように復興が書かれている。
社傳に、或る時将軍家に、騎射の御催しあり。丸亀藩主京極高矩公も其の選にあたり、 御上覧の事とて甚だ心配し、数日前より斎戒沐浴して、神明の加護を祈り、其の成功を 期し居たるが、或る夜白髯の老翁現はれ「明日の騎射は、重藤の弓に白羽の矢を用ふれば、 必ず的中すべし」と云ひしかど、吶嗟の間、藩主は一言をも発し得ず。不審に思ふ内、 忽ち掻き消す如く消へ在らず。侯大に驚き待臣を呼び、今云々の事ありとて、彼是尋ねしめしも 遂に見當らず。後寝に就くや、幻夢の間老翁亦來り「汝我言を用ふれば明日の事、決して 憂ふるに足らざるべし」とありければ、藩公は直に、「しか告げ玉ふは誰人に座すや」と 問ひしに「吾は汝の領地を守護する雲氣神なり」と答へらるると共に、其の姿消へ失せたりと 思へば、全く夢なりき。藩侯思へらく、是れ神の御示教なり。明日必ず武名を挙ぐべしと、 大に喜び只管雲氣神を祈りて其の成功を期したり。而して翌日に至り、彼の夢告の如く したるに、果して靈夢に違はず、美事的中したれば、将軍の御感斜ならずして、有り難き御褒詞を 戴き、名誉を一身に萃め、列座せる天下の勇将をして、大に驚歎せしめたりと云ふ。 是によりて直に領内の庄屋に命じ、雲氣祠を尋ねしめたるに、弘田村に其の古址の在る事判明しければ、 便ち宮殿を造営し、祠官散卒を置きて社前の事を掌らしめ、世々厚く尊崇し、毎年春秋 の大祭には、藩主公式を以て参拝せられたりと云ふ。されば本社の事は総て村民に関与せしめず。 京極家に於て祭祀を行はれしか。明治維新後、神社の制度革りしより、廃藩の際、神社を擧げて弘田村に 委ねられしかば、爾来弘田村民に於て之れを祭れり。今も武運の長久、庶業の達成を祈り、遠近の参者多く、霊験著しと云ふ。







雲気神社  正面  本殿  全景  竣工記念碑  道標


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